LOGIN古いプリンターから吐き出された写真を透明袋へ入れたあとも、六人はすぐには隠し部屋を離れなかった。
現在も誰かが常世荘二〇三号室を監視し、存在しない社員番号で管理会社のシステムへアクセスしている。
しかも、六人がどこに立っているかまで把握している。
その事実は、壁の中にもう誰もいないと確認した直後だけに、目に見えない視線をさらに濃くした。
蓮司は床下へ続く蓋の脇へしゃがみ、梯子の周囲へ懐中電灯を向けた。
犯人が一階の空室へ逃げるために使ったと思われる縦穴とは別に、ベッドの下へ不自然な継ぎ目がある。
カーペットを剥がすと、床板の一部だけ釘の位置が新しく、四角く切り直されていた。
朔が撮影しながら釘を一本ずつ抜き、悠斗と蓮司が板を持ち上げると、下から乾いた紙と防虫剤の混じった臭いが上がってきた。
「収納だ」
蓮司が光を落とす。
深さは膝ほどしかなく、逃走路ではない。
代わりに、樹脂製の収納箱が隙間なく並べられていた。
透明ではなく中身は見えず、それぞれの蓋へ白いラベルが貼られている。
最初の箱を引き上げた悠斗の手が止まった。
ラベルには女性の氏名が、黒い油性ペンでフルネームまで書かれていた。
蓮司が持っている入居者資料の中に同じ名がある。
常世荘二〇三号室から十一年前に姿を消し、現在も警察上は行方不明になっている女性だった。
「開ける前に全部出す」
朔の言葉に従い、六人は箱の位置を撮影してから一つずつ床へ並べた。
全部で七つあり、どれも大きさと型がほぼ同じで、ラベルの文字だけが違う。
そのうち六つには、常世荘へ住んだ女性たちの名前があった。
蓋の表面には同じ種類の擦れが残り、同じ人物がまとめて用意したようにも見えた。
美月が資料を開き、氏名を読み上げるたび、蓮司が箱のラベルと照合した。
十二年前に逃げた藤崎杏奈の名前もある。
現在別の地域で暮らしている女性の箱まで存在することに、奈々香の顔が強張った。
失踪した者だけではなく、一度でも壁の中の男や人形に触れた女性の生活を、誰かがまとめて保管しているように見えた。
「警察を呼んだ方がいい」
美月が言ったが、蓮司はすでに連絡を入れていた。
現場をこれ以上動かさず、箱の中身も必要最低限の確認だけにすると決める。
だが警察の到着まで待てば、管理システムへ今も入っている誰かが証拠を消す可能性もあるため、蓮司は電話口で現在進行中の監視と隠し部屋の状況を説明し、到着まで記録だけ続ける許可を取った。
一つ目の箱を、蓮司が手袋越しに開けた。
中に入っていたのは、通帳、古い携帯電話、写真立て、腕時計、ネックレス、衣類、化粧品、保険証のコピー、手紙の束だった。
貴重品だけでも、思い出の品だけでもない。
女性がその部屋で暮らしていた痕跡を、誰かが丸ごと縮小して箱へ詰め直したような内容だった。
「これ、持って逃げた人の分まで?」
奈々香が藤崎杏奈の箱を見る。
中には十二年前の古い携帯電話と財布、写真、赤いマフラー、手帳が残っていた。
杏奈が荷物を捨てて逃げたという証言と一致する一方で、それらを管理会社や警察ではなく壁の中の誰かが回収し、ここへ保管していたことになる。
悠斗は通帳の名義と箱の名前を照らし合わせながら、管理会社が退去処理をした際に残置物を廃棄したという記録があると説明した。
処分業者へ渡されたはずの荷物がここへ戻っているなら、管理側の処理過程に入り込める人間がいた可能性がさらに高くなる。
蓮司は「戻った」と決めつけるなと訂正し、廃棄前に誰かが抜き取った可能性もあると冷静に返した。
澪は床へ並んだ箱を見ているうちに、七刻女学校の門前へ置かれていた六つの木箱を思い出していた。
あの場所でも、それぞれが八年前に持ち出した品を名前付きの箱へ入れられていた。
ここでは女性たちの生活そのものが、同じように名前を付けられ、分類されている。
偶然同じ形になったとは思えなかった。
「四人の本当の行方不明者は?」
美月が蓮司へ訊き、二人で資料を確認する。
警察の行方不明者記録と一致する女性は四人。
その名前を収納箱へ当てはめていくと、一人、どうしても見つからない氏名があった。
「最初の人がいない」
蓮司の声が低くなった。
十三年前に二〇三号室から消え、先ほど録画映像にだけ姿を現した最初の行方不明者の名前だけが、どの箱にも書かれていない。
四人のうち唯一、生活用品をまとめた痕跡そのものが欠けていた。
奈々香が七つの箱をもう一度数えた。
「でも七個ある」
最後まで閉じたままだった箱へ目を向ける。
ほかの六つよりラベルが少し新しく、文字も濃い。
澪は読める位置へ一歩近づき、全身が冷えるのを感じた。
最後のラベルに書かれていたのは、椎名澄花という名前だった。
蓮司の呼吸が止まり、誰も彼より先に箱へ触れようとはしなかった。
彼は数秒、妹の名前だけを見つめたあと、手袋の指をゆっくり蓋の縁へ掛けた。
「開ける」
留め具が外れる音が、狭い隠し部屋へ大きく響いた。
中には高校生の少女が三日ほど生活するには十分な量の私物が収められていた。
替えの下着や薄い上着、古い携帯電話の充電器、小さな化粧ポーチ、常備薬、細いヘアゴム。
その奥へ、赤い組紐が二本、きれいに巻かれて入っていた。
「予備……」
澪は自分が持っている組紐を思い出した。
澄花が失踪した夜に手首へ巻いていたものと同じ編み方だった。
蓮司は触れず、横にあったノートを持ち上げる。
表紙は紺色で、角が擦れて白くなっている。
高校時代、澄花が怪談や古い新聞記事の切り抜きをまとめるときに使っていたものと似ていた。
さらに箱の底には七刻女学校の手書き見取り図と、常世荘二〇三号室の古い壁紙を切り取ったような紙片が数枚重ねられていた。
「壁紙まで持ってた?」
美月が眉を寄せる。
切れ端の裏には、赤茶色の染みと、鉛筆で小さな番号が書かれている。
蓮司は妹が噂の場所へ行くと、壁材や落ちていた紙、古い札の写真を撮ることはあっても、無断で持ち帰るのは嫌っていたと話した。
「証拠として切ったなら、理由を書いてるかもしれない」
澪は蓮司の許可を得てノートを開いた。
最初の数頁は残っているが、途中から大量に破り取られている。
紙の根元だけが不揃いに残り、何十頁分も失われていた。
誰かが必要な部分だけ抜き取ったというより、途中の記録をまとめて消したような破り方だった。
残された前半には、返し雛について短い覚え書きがあった。
持ち主へ返す人形ではなく、「元の場所へ戻す」という表現が繰り返されている。
ただし場所の名前は書かれておらず、〈人が作った噂と、噂に寄ってきたものを分ける〉という走り書きが何度も残されていた。
澪は頁を進めた。
七刻女学校へ行く数日前の日付で、〈人形を持ってきた人を探す〉、〈学校が始まりではない〉、〈常世荘の女の話と同じ形〉とある。
その先は破られていた。
「澄花、最初から二つをつないでた」
澪が言うと、蓮司は黙ったまま見取り図を見つめた。
妹は七刻女学校で偶然返し雛を見つけ、常世荘へ持ってきたのではない。
七刻女学校と常世荘に同じ何かが関わっていると考え、その発生源を追っていた可能性が高かった。
残っている最後の頁へ近づくにつれ、澄花の字は乱れていた。
いつもの丸い筆跡ではなく、鉛筆を強く押しつけた線が紙へ食い込んでいる。
最後から二枚目には何もなく、最後の一枚にだけ数行の文章があった。
女が消える部屋には二種類いる。
壁の中にいる、生きている人。もう一人は、人形についてくる女。
同じものだと思ったら駄目。澪は声に出さず、何度も読んだ。
奈々香と美月も横から覗き込み、悠斗は押し入れ側の壁へ視線を向ける。
十二年前の杏奈が語った内容と一致していた。
壁の中には、生きている男がいた。
覗き、盗み、部屋へ侵入した人間。
そして返し雛は、その男とは別のものだった。
杏奈自身が「人間だったのは、壁の中だけ」「人形は違う」と話している。
「人形についてくる女って」
奈々香が小さく言う。
「鏡に出た人? 録画にいた最初の入居者?」
澪には判断できなかった。
返し雛のそばでは、これまで澄花とは別の少女や女性の気配が何度も現れている。
七刻女学校で澄花が「ここにいるのは私だけじゃない」と言った声ともつながって見えた。
「続きは?」
蓮司に訊かれ、澪は次の頁をめくろうとして指を止めた。
次の頁は存在せず、最後の文章の直後から紙が根元ごと破られている。
切り取ったのではなく、複数頁をまとめて力任せに引き裂いた痕があり、誰かが続きだけを読ませまいとしたように見えた。
「一番知りたいところだけ消えてる」
悠斗が苦々しく言った。
澄花が「人形についてくる女」の正体や、返すべき場所に気づいていたとしても、その記録は箱の中に残されていない。
蓮司は箱のほかの品を一つずつ確認したが、古い携帯電話本体はなく、充電器だけがあり、財布も学生証も見当たらなかった。
三泊するために持ってきた私物を誰かが後からまとめたとすれば、必要なものだけ抜き取った形にも見えた。
美月が「この箱は誰が作ったんだろう」と呟く。
歴代入居者の箱と同じ型ではあるが、澄花は正式な入居者ではない。
三泊予定の一時利用だった彼女まで、誰かは「二〇三号室の女」として分類していたことになる。
「壁の中の人間だろ」
悠斗が答えたが、蓮司はすぐに決めるなと言った。
初期の壁の男は十二年前には失踪しており、澄花がここへ来た八年前には別の人物が隠し部屋を利用していた可能性が高い。
箱を作った人間と、澄花を監視した人間と、現在この部屋を使っている人間が同一だという証拠もまだない。
奈々香は澄花の箱ではなく、隠し部屋の黄ばんだ壁を見ていた。
写真が貼られていない場所が一か所だけあり、薄い壁紙に斜めの擦れが残っている。
彼女は数歩近づくと、顔を傾けた。
「ここ、何か書いてない?」
朔が懐中電灯を向ける。
最初は染みとしか見えなかったが、光を横から当てると、鉛筆のような灰色の線が壁紙の下へ透けていた。
文字の一部らしい。
「壁紙の下だ」
蓮司が言う。
今貼られている壁紙は十五年前のものではなく、途中で張り替えられていることが改修記録から分かっていた。
誰かが、古い壁へ書かれたものを隠すように新しい壁紙を重ねた可能性がある。
勝手に大きく剥がせば証拠を傷める。
蓮司は警察へ状況を追加で伝え、端から数センチだけ状態を確認することにした。
朔が全体を撮影し、美月が薄いヘラを壁紙の継ぎ目へ差し込む。
乾いた糊がぱり、と小さく剥がれ、その下から鉛筆の文字が現れた。
澪は最初の二文字を見た瞬間、誰の筆跡か分かった。
書き出しの形も、文字の払いも、箱のノートに残されたものと同じだった。
「澄花」
蓮司が息を止め、美月はさらに慎重に壁紙をめくった。
剥がす幅が十センチ、二十センチと広がっても、隠れていた文字は一行では終わらなかった。
古い鉛筆の線は壁紙の下で途切れず、床に近い位置まで続いていた。
美月がさらに壁紙をめくるほど、文字は途切れるどころか下へ下へと続いた。
やがて黄ばんだ壁の広い範囲が露出し、そこには余白を惜しむように細かな文章がびっしりと書き込まれていた。
途中には矢印や時刻、人物を示すらしい記号、二〇三号室の簡単な間取りまで描かれており、壁紙の裏へ隠されていた範囲だけでもノート数十頁に相当する量だった。
「全部……妹が?」
蓮司の声が震えた。
澪は筆跡を追い、乱れた場所や、強く書きすぎて芯が折れた跡まで確認する。
それでも、文字の癖は間違いなく澄花のものだった。
蓮司は手を伸ばしかけたが、触れれば八年前の筆圧まで壊してしまうように感じたのか、壁の直前で指を止めた。
八年前、澄花はこの隠し部屋にいた。
写真を撮られていた二〇三号室側ではなく、覗く側である壁の中へ入れられ、自分を監視していた者が暮らす三畳ほどの部屋で長い時間を過ごしていた。
その時間の長さが、壁を埋め尽くす文字の量として残されていた。
最初に読めた一文は、ノートの文章よりも強い筆圧で書かれていた。
〈ここから出してもらえない。〉という文字の下には別の日付らしい数字があり、さらに〈壁の男とは違う。この人は私たちのことを知っている。七刻女学校のことも知っている。〉と続いている。
澪は喉が締まるのを感じながら、一字も見落とさないよう光の中の文字を追った。
記録には、隠し部屋へ閉じ込められてから聞いた音まで細かく残されていた。
二〇三号室を誰かが歩く時刻、床下の梯子を上り下りする音、壁の向こうでカメラの録画ボタンを押す音、その人物が電話で誰かと話していた時間。
澄花は恐怖に耐えるだけではなく、自分を閉じ込めた者の行動を観察し、逃げるための材料へ変えようとしていた。
ところどころに〈一人じゃない〉という記述があった。
ただし、それが犯人に共犯者がいるという意味なのか、返し雛についてくる女を指しているのかは分からない。
別の箇所には〈夜になると二〇三に女が立つ。でも壁の人はその女を見ていない〉とあり、人間の監視者と、澄花が見ていたものが同じ場所にいながら別々に存在していたことを示していた。
澪が続きを追おうとした瞬間、隠し部屋の奥で古いビデオデッキが勝手に動き出した。
誰もテープを入れていないはずの機械が低く唸り、テレビの砂嵐が一度だけ白く弾ける。
蓮司と朔が同時に振り返ったが、デッキの挿入口は空のままだった。
壁へ書かれた澄花の文字の中で、一箇所だけ大きく丸で囲まれていた記号は〈08:13〉だった。
その下には、ほかの記録より深く鉛筆を食い込ませた一文が残されている。
澪はその文字を追い、無意識に息を止めた。
八分十三秒を消した人が、ここにいる。
午前二時五十分。 美月が自分へ告げられた死亡予定時刻を生きて越えてから二十分余り、六人は旧道脇の開けた場所で次の動きを決めかねていた。 奈々香の午前三時十三分まではまだ時間があるが、園村香苗を模した人形、偽造された薬剤、切断寸前のブレーキ配管と、罠は一つずつ見つけても終わる気配がない。 さらに美月へかかってきた声は、高校時代の澄花しか使わなかった言葉まで知っていた。 犯人が現在の行動だけではなく、八年前の七人の私的な記憶にまで入り込んでいるという感覚が、眠気より重く全員の身体へまとわりついていた。 悠斗は橋の欄干近くで煙草へ火をつけ、苛立ったように一度深く吸い込んだ。 警察への連絡は妨害されたままで、車を動かすことにも警戒しなければならず、何かを触れば罠かもしれない一方で、何もしなければ別の仕掛けを見落とす。 その窮屈さに耐えかねたように煙を吐いた瞬間、彼のスマートフォンが上着のポケットで鳴った。 画面へ表示された名前を確認した悠斗は、露骨に顔をしかめた。「今度は俺かよ」 発信者は〈黒瀬悠斗〉。 自分自身からの着信だった。 誰も応答しないうちに端末は勝手にスピーカーへ切り替わり、悠斗本人の声で〈黒瀬悠斗。死亡予定時刻、午前三時〇二分〉と読み上げた。 悠斗の表情は一瞬だけ固まったものの、奈々香のように怯える代わりに、すぐ怒りが恐怖を押し潰したように腕へ力を込めた。「ふざけんな」 時刻は午前二時五十分を少し過ぎたところで、残り十二分しかない。 悠斗はスマートフォンの電源を切ろうとしたが、朔が記録を残すため止めると、端末を握ったまま橋の中央まで歩いていった。 そこで胡坐をかくように路面へ座り、両手を膝の上へ置く。 顔には、犯人の思いどおりには一歩も動かないという意地が浮かんでいた。「だったら俺は何もしない! 車にも乗らない。倉庫にも入らない。電話も取らない。何も食わないし飲まない。ここから一歩も動かなきゃ、罠に誘導しようがないだろ」 理屈だけなら間違っていなかった。 奈々香は恐怖から車で逃げようとし、美月は仲間を助けるため医療バッグを開くことを読まれていた。 本人が自然に取る行動の先へ殺害手段を置くのなら、その行動自体を止めればいい。 澪も一瞬は悠斗の考えがもっとも安全に思えたが、朔だけは時計から目を離さなかった。「座っ
午前一時五十二分。 蓮司の車内で奈々香の手のひらに残った赤い文字を撮影していたとき、美月のスマートフォンが短く震えた。 通信妨害が続く山中では、通常の回線を通した着信など成立しないはずだった。 それでも画面は着信表示へ切り替わり、発信者欄へ〈早乙女美月〉という名前が浮かんだ。 美月は端末を持ち上げたまま、すぐには応答しなかった。 奈々香のときと同じなら、触れなくても勝手に通話状態へ切り替わる。 朔がカメラを向け、蓮司が時刻を記録し、澪は眠気の消えた奈々香の肩へ手を添えた。 三度目の振動が終わったところで、予想どおり画面が自動的に切り替わった。『早乙女美月』 スピーカーから流れたのは、美月自身の声だった。 救急現場で必要事項を確認するときの、無駄な抑揚を削った落ち着いた声。 それが本人の名を読み上げ、数秒の間を置いて続ける。『死亡予定時刻、午前二時二十七分』 車内の時計は一時五十二分を示していた。 残り三十五分。 奈々香が息を呑み、美月の横顔を見た。 美月はすぐ端末を伏せたが、声も呼吸もほとんど乱れていなかった。「美月……」「大丈夫」 奈々香の死亡予告を二度経験したあとだから、仕組みそのものに慣れたわけではない。 それでも自分へ向けられた数字を聞いた瞬間、美月が恐怖より先に何を狙われているのか考え始めたことが、澪には表情から分かった。 奈々香が「怖くないの?」と訊くと、美月は一度だけ視線を時計へ戻し、自分の脈を確かめるように手首へ指を当てた。「怖いよ。でも、怖がったときにどう動くかまで読まれてるなら、取り乱した方が相手の予定どおりになる」 奈々香は何も言えず、自分の掌へ残った赤い文字を見た。 美月は一度深く息を吐き、車外へ出る前に自分の持ち物から確認すると言った。 犯人は奈々香の車とバッグへ罠を仕込み、本人が自然に選ぶ逃げ道を殺害手段へ変えていた。 ならば救急救命の知識を持つ美月に対しても、彼女が危機へ直面したとき最初に手を伸ばすものが狙われている可能性が高い。 美月が最初に床へ置いたのは医療バッグだった。 七刻女学校へ入る前から持ち歩き、透の死亡確認にも使ったものだ。 止血用品、包帯、消毒薬、体温計、簡易の検査器具、常備薬が細かく仕切られた内部へ収まっている。 美月自身が補充しているため、本来なら一本増
午前三時十三分まで、二時間を切っていた。 園村香苗を模したシリコン人形が置かれた軽自動車を警察へ引き渡すための連絡は、依然として電波妨害に阻まれている。 山道を徒歩で抜ければ通信圏まで戻れる可能性はあったが、奈々香の死亡予定時刻を告げた者が、その行動まで見越して罠を置いていない保証はない。 蓮司は車と倉庫で見つかった仕掛けを見回したあと、逃げるのではなく、相手が午前三時十三分に何を起こすつもりなのか先に探すと決めた。「予言じゃないなら、予定表だ」 悠斗が低く言った。 奈々香を一時十三分に殺すため、犯人はブレーキ配管を切り、倉庫へ落下装置を用意していた。 二つとも見破られたあと、予定時刻だけが三時十三分へ変更されたなら、新しい罠をすでに準備しているか、離れた場所から起動できる仕掛けへ切り替えた可能性が高い。 死亡予告を恐れるだけでは、犯人が用意した選択肢の中を動かされ続けることになる。 奈々香は蓮司の車の後部座席へ移された。 二台とも遠隔遮断器を外したため電源は復旧していたが、ブレーキへ細工された奈々香の車は動かせない。 蓮司の車も走らせず、橋と電話ボックス、山林のいずれからも距離を取り、周囲を四方向から確認できる路肩へ停めた。 美月が奈々香の隣に残り、窓とドアを内側から施錠し、何があっても一人で外へ出ないよう約束させた。「眠ったら駄目?」 奈々香は疲れ切った顔で訊いた。 二度も死亡時刻を告げられ、髪を根元から引き抜かれたうえ、橋の上で長時間緊張を続けている。 美月は無理に起き続ければ判断力が落ちるため、短時間眠ること自体は問題ないと答えた。 ただし自分が必ずそばにいて、呼吸と意識状態を確認し続けると伝える。 澪、朔、悠斗、蓮司の四人は、電話ボックス脇から山林へ伸びるケーブルを再び辿った。 小型無線中継器は倒木の裏へ防水ケースごと固定され、遠隔信号で公衆電話のベルや音声再生装置を動かせるようになっている。 先ほどは構造を確認するだけに留めていたが、今度は朔が書き込み防止用の機器を介し、ノートパソコンから保存領域の複製を始めた。 犯人へ接続を悟らせないため、通信機能そのものは切らず、記録だけを読み取る。「ログが残ってる」 朔の指が止まった。 端末には日時と送信先を示す記録が並び、今夜の着信だけでなく、数日前から試験信号
午前一時十四分へ変わる直前、欄干の外側から伸びた白い指が奈々香の髪へ触れた。 最初は濡れた枝が風に煽られたのだと、澪の目は理解を拒んだ。 だが指は五本あり、その先には掌があり、細い手首が暗い谷側へ続いていた。 橋の外には人間が立てる足場などない。 それでも女の手は奈々香の後頭部へ回り込み、長い髪を根元からまとめて掴んだ。「奈々香!」 澪は反射的に彼女の左腕を引いた。 ほとんど同時に奈々香の身体が欄干側へ強く引かれ、首が不自然に後ろへ反る。 奈々香は悲鳴を上げ、両手で自分の髪を押さえたが、見えない何かに身体ごと持っていかれるように靴底が路面を滑った。 朔が右腕を掴み、美月は奈々香の腰へ腕を回した。 悠斗と蓮司もすぐ駆け寄り、欄干から距離を取らせるよう全員で橋の中央へ引く。 澪の掌へ奈々香の爪が食い込み、朔の靴が濡れた路面で一度滑った。 髪を引く力は一瞬だけさらに強くなり、ぶちぶち、と嫌な音が奈々香の後頭部から聞こえた。 次の瞬間、力が消えた。 奈々香の身体は勢い余って橋の中央へ倒れ、澪も膝を路面へついた。 朔は奈々香を支えるより先に欄干へライトを向け、美月は倒れた彼女の頭を両腕で守る。 白い手はもうどこにもなかった。「動かないで。頭打った?」「髪……髪が……」 奈々香は泣きながら後頭部を押さえた。 美月はすぐ手袋をつけ、頭皮を照らして傷を確認する。 頭蓋部に打撲らしい腫れはないが、右後頭部だけ髪が不自然に薄くなり、赤くなった頭皮へ小さな出血点が幾つも並んでいた。 路面には髪が落ちていた。 十本や二十本ではない。 長い毛髪が数十本、束になって欄干近くへ散らばり、その多くに毛根がついている。 何かへ絡まった髪が自然に抜けたのではなく、強い力で根元から引き抜かれた痕跡だった。「誰かいた?」 悠斗が欄干から下を照らす。「いない」 蓮司も別角度から橋の側面を確認した。 コンクリート欄干の外側はほぼ垂直に落ち、下には十数メートル先の河原がある。 橋脚へ点検用の細い突起はあるものの、人間が片手でぶら下がりながら奈々香の髪を掴める位置ではない。 ロープを使えば可能性は残るが、欄干にも橋面にも固定具や擦れ跡は見当たらなかった。 朔はすぐに橋下へ続く斜面へライトを向けた。 先ほど透らしき人物が現れた河原にも人影はなく
〈死亡予定時刻、午前一時十三分〉という自分自身の声を聞いてから、奈々香はまともに呼吸ができなくなっていた。 美月が肩へ手を置いてゆっくり息を吐くよう促しても、彼女の視線はスマートフォンの時計へ吸いついたまま離れない。 午前零時三十二分。 残り四十一分という数字が一つ減っただけで、奈々香は喉を押さえ、橋を出ると言って車へ向かって歩き出した。「ここにいたら死ぬ。私、帰る」 悠斗が追いかけ、蓮司も橋を離れるなら六人一緒だと制した。 誰も奈々香を一人にするつもりはなく、死亡予告が犯人の誘導である可能性を考えれば、指定場所から逃げることさえ罠になり得る。 それでも奈々香は首を振り、今いる場所こそ殺されるために選ばれた場所だと言いながら、震える手で車のドアを開けた。 運転席へ座った奈々香がスタートボタンを押すと、セルモーターすら回らなかった。 警告灯だけが一度点き、すぐにメーター全体が暗くなる。 奈々香は「なんで」と呟きながら何度も始動を試したが、結果は同じだった。 朔がすぐに運転席から降ろし、車体へ触れる前に周囲を撮影する。 蓮司が自分の車でも始動を試したが、そちらも反応せず、二台ともほぼ同時に電気系統を失っていた。 悠斗がスマートフォンを取り出して警察へ連絡しようとすると、アンテナ表示は消え、圏外になっている。 美月、蓮司、澪の端末も同じで、数分前まで使えていた位置情報共有も切れていた。 山間部とはいえ、橋へ到着した時点では弱いながら通信できていたため、自然な電波状況の変化だけでは説明しにくかった。「妨害されてる」 朔は山林側へ隠されていた無線中継器とは別に、広い帯域へ雑音を流す小型の妨害装置がある可能性を指摘した。 車の始動不能まで同じ設備で起こせるとは限らないが、少なくとも外部との連絡を切り、六人を橋周辺へ留める意図は明確だった。 彼は自分の端末を操作しながら、通信が完全に失われた時刻と奈々香への死亡予告が流れた時刻を並べ、偶然にしては近すぎると呟いた。「じゃあ、さっきの電話は?」 奈々香が自分の端末を差し出した。「圏外になる前にかかってきたんでしょ。誰から?」 朔は着信履歴を開き、しばらく画面を見たあと眉を寄せた。 そこには白石奈々香からの着信が存在しなかった。 通話記録にも、不在着信にも、午前零時三十一分の発信は
午前零時十三分を過ぎても、河原に相馬透の姿が戻ることはなかった。 濡れた石の上には、彼が使っていた黒いヘッドフォンと、細長く伸びた磁気テープだけが残されている。 美月は手袋を二重にしてからヘッドフォンを拾い、朔が横で位置と状態を撮影した。 磁気テープには直接触れず、蓮司が長いピンセットで別の証拠袋へ収める。「これ、透のです」 美月はヘッドフォンの内側を懐中電灯で照らした。 左側のヘッドバンド裏に、浅い三本の傷が並んでいる。 高校時代、透が音響機材を机から落としたときについたもので、本人が気にせず使い続けていたため、美月も澪も何度か見たことがあった。 イヤーパッドの裂け目を白いテープで補修した跡まで一致しており、似た機種を用意しただけとは考えにくい。 澪は河原の暗がりを見た。 七刻女学校の放送室で透が倒れたあと、このヘッドフォンは彼の荷物と一緒にあったはずだった。 その遺体が消えた際に所持品まで持ち出されたのか、誰かが警察の封鎖前後に回収したのか、それともさらに別の経路で戻り橋へ運ばれたのか、判断できる材料はない。 確かなのは、死んだと確認した友人の私物が、今夜ここへ置かれていたことだけだった。「触った人間の痕跡が残ってるかもしれない。現場では最低限にする」 蓮司の言葉に、美月は頷いた。 だが朔はヘッドフォンを袋越しに見るうち、右側のハウジングだけわずかに厚みが違うことへ気づいた。 通常なら左右対称に近いはずの外装が、片側だけ一ミリほど浮いている。 落下で歪んだ可能性もあるが、螺子頭には一度開けたような細い傷があった。「中に何か入ってる」 悠斗が顔を寄せる。「ここで開けるのか?」「全部は開けない。外から確認できる範囲だけ」 朔は蓮司と警察へ連絡を入れ、現地保存を優先しながらも、現在進行中の危険につながる情報が隠されている可能性を説明した。 許可を得たうえで、車から精密工具を持ってきて右側の外装を慎重に外す。 内部の配線には大きな改造はなかったが、吸音材の裏へ、薄い黒色のメモリーカードがテープで固定されていた。「また記録媒体」 奈々香の声が小さくなる。 返し雛の内部から出てきた特殊規格のカードを思い出したのだろう。 朔は今回のものは一般的な小型規格で、八年前にも市販されていた形式だと説明した。 透は音響機器の